第4回 「砂の女」(安部公房)


 【あらすじ】

昆虫好きの中学校の先生が珍しい虫を捕まえにある部落へ行ったところ、 その部落から出してもらえなくなってしまう、という不条理ものです。


砂地に住むという特殊な昆虫の新種を見つけに、中学校の先生が海辺の部落を訪れる。
その部落は、各戸が砂に埋まりそうになっているが、必死に砂をかき出してながらえているのだった。

中学校の先生は、その部落の人間たちに、ある家の砂のかき出し要員として、まんまと拉致される。

男(=中学校の先生)は、ある未亡人のひとり住まいの家をあてがわれる(家にあてがわれた、と言うべきか)。
彼は、砂をかき出すことで労力と時間を浪費しているようにしかみえない彼女に、
どうして出ていかないのか、どうしてもっと自由になろうとしないのか、と責めるように問いかける。
彼女は、その問いかけに途方に暮れるばかりである。

そういう彼は、なんとか脱出しようと試みるが、それはことごとく失敗に終わる。
部落では他にも何人かを拉致していたから、脱走を防ぐ手立てが出来ていたのである。
男は、はじめのうちは、部落に取りこまれないようなかなか馴染もうとしなかったが、
脱出が不可能であることを次第に思い知らされると、自分の過ごし易さを得るために、
自分自身に言い訳をして、部落に対する敵意を段々と曲げていく。

ついには、同棲していた未亡人が妊娠し、子供がうまれそうになる。

男は、そのどさくさの中で逃げるチャンスがあったが、逃げはしなかった。
そして、結局、元いた世界に戻らない道を選んだ。  



ちょっと余談。
前から思っていたのですが、手塚治虫のいくつかの漫画と、 安部公房の小説の世界って、似ていると思いませんか?  

手塚の「きりひと賛歌」で、病原体の正体を突き止めに部落へ行って出してもらえなくなるところは、 公房の「砂の女」に、同じく手塚の「奇子」(あやこ、と読む)は、公房の「箱男」を彷彿とさせる。  

エロ・グロ・ナンセンスの不条理もの全盛時代で、手塚は、「俺だって不条理ものは得意だ」 と言わんばかりの力の入りようである。



【議論のおぼえがき】

砂は、狂気、あるいは、凶器である。  

この「砂の女」は、ストーリーは極めて追っていきやすい。
一般に「不条理もの」と言われているが、ストーリーをつかむことが困難ということは全くない。  


(砂:部落)=(部落:男)。(からす:餌)=(男:虫)=(部落:男)、……など、
同一の関係性が沢山登場する。  

無機的な砂と、有機的な女。合わせて「砂の女」。

男の恋人が、男が避妊し続けるのを、ベッドで非難するのなどは生々しい、有機的女をイメージさせる。
逆に、何事にものれんに腕押し的な砂の中の女は、無機的である。
全裸で顔にだけ布をかけ、体にうっすら砂が積もっているなんてのは、象徴的だ。  

物語は、男のモノローグで進んでいくので、うっかりすると、
男の犯す誤謬に、読者もまんまと乗せられる。男は、あまりの異常な出来事に、
自分で自分にウソをついたり言い訳したりし続けるのだが、
リアル過ぎて読者もそのことをつい看過してしまうのだ。
最後には、男は混乱をきたし、さらに自分の常識の変更を余儀なくされるが、
読者もある段階に来てふと何かがおかしいことに気付き、
何がおかしかったのをあらためて考え直す、と言った次第だ。

例えば、縄梯子を下ろしてもらいたくて、部落の人間の歓心を買おうと
男は衆人環視のなか女とセックスをしようとする。
男の当初のプライドの高さからは考えられないことである。

その、騙し絵のように、ゆっくりとしかも確信犯的に、
読者を騙すストーリーテリングの巧みさは、秀逸である。  

ところで、いまだに持っている疑問点。  
ハンミョウは、男の希望の象徴と言えるか?
新種のハンミョウは、自分の名前を残すのによい、
ハンミョウはそのためのアイテムに過ぎない、という体裁を取っているが、
本当は、彼は、荒涼とした砂地を駆けて行くハンミョウに憧れを抱いていたのではなかろうか?  

逆に、みんなと話して解決した点。  
穴倉から一度逃げ出した男は、蟻地獄につかまって死にかける。
しかも、部落の人間たちに、むしろ、助けられることになる。
その結果、別の意味での蟻地獄、部落と言う砂に埋もれていく。  
読んだ当初、私は、「外に逃げても砂につかまる」というのは、
作者は、「どこにも自由はない」(「自由」の意味は難しいが)
ということを言いたいのだろうか?と考えた。  

しかし、K全さんは、
「この作品で作者が言いたいことは、現状に不平ばかり言っていてはいけない、
生きていく上ではうんざりすることもあるということを受け止めなければならない、ということ」
だと捉えたそうだ。  

この言葉で、視野が開けるような気がした。  

確かに、作者は、砂の部落を通して、人間社会を描いているが、
彼自身は人間社会を批判していない。
主人公を通して、人間性(ユーモア)を描写してはいるが、
主人公や社会の間違っている点をえぐりだしているわけではないからだ。
作者は、ただ単に主人公と社会の「今ある状態」を、
合理的な理由を積み重ねて描き出しているだけだ。
批判するどころか、読み方によっては、そうならざるを得ない理由を示すことで、
同情しているようにすら読める。  

つまり、この作品は、状態の提示にのみ徹しているのだ。  
そこから何を汲み取るかは、おのおのの読者に任されているのだ。  

人間は、時間空間に束縛されている。
ある時点で、自分の選んだ居場所にいることができるが、
どこにいるのが自分にとって居心地が良いかというのは難しい問題だ。
さらに、どこにいても何らかの制約を受ける。
しかも、「どこにもいない」という選択は出来ない。
(「どこにもいない」というのは、「死」を意味するのか?)



【会の様子】  

う〜む、今回は、実に人が少なかった……(ほんとうに……)  
しかし、私としては、上でも書いたとおり、大変収穫のある話し合いでしたとも!!  
新しい視点を与えてくださったK全さんには、心から感謝いたします。  

で、K全さん、デジカメは何買いました?  
実習、頑張って下さいね。


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